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2006年11月 8日 (水)

たまには的を射た発言が。。。

 昨日の北海道新聞夕刊に珍しく的を射た教育関係に関する発言の記事が掲載されていたので驚いた。その記事は関西在住の精神科医・野田正彰氏によるもの。どうも日本人は政治談義はあまりしないのに教育談義(非難というほうが正しいかも)は好きなようだ。それだけ自分たちにとって身近な問題で関心も高いということなのか、それともただ論じやすい、非難しやすいからなのかは定かではないのだが。。。にも関わらず、自分が教育に「今後」どう関わるべきなのか、どう関わることが「今」出来るのか、ということを論じない(考えてもいない、と言った方が正しいかも)、そして実行しない大変無責任な一面を最近の日本人は晒し続けているように思える(先日後輩のjuneに会ったとき、このブログでは随分とおとなしいですね、と言われたので今回はちょっと辛めトークになっているのかも?!)。

 その新聞記事、いわゆる教育現場にいる教師が実際どういう状況下にあるのか、という大変現実的な視点から述べられている。いわゆる、教師は奴隷ではない、という大胆な物言いに共感を覚えたのだが、いくつか自分が日々講義で述べていることと共通する部分があるのでそれらを今日は取り上げてみたい。

 まず第1に、野田氏は学校現場で児童の自殺などが起きる度に、どの教育委員会もバカの1つ覚えのごとくに臨床心理士やスクールカウンセラーを派遣し、児童のより念入りな点検に取り組むことが常となっていることを疑問視している。私としてはこの臨床心理士を派遣すれば何とかなるという考え方(臨床心理士万能主義とも言える)そのものに問題があると常々思っているのだが、ここで彼が言わんとしていることは、教育委員会の責任の所在である。つまり、教育委員会の主たる任務は、各学校の指導・監督に当たること、しかしながら、問題ある学校を多数造っておきながら教育委員会は何らその機能を変えることなく今まで存在し続け、その責任は全て現場の教師に負わされてしまい雑務ばかりが増えているのが現実だ。これでは子どもたちとともに過ごし、子どもたちを理解する場がどんどん減っていても仕方がない。

 第2に、市長や教育長は直接子どもたちに接する職ではなく、教師が子どもと向き合い、豊かな交流を持てるような学校環境を造ることがその職務なはず。気持ちよく教育に打ち込める環境を造ってこなかったにも関わらず、事態を悪化させた責任者が、子どもと直接接している教師に把握と対応を十分にせよと指示しているのは矛盾していると説いている。これも十分に頷ける話しであり、まさに「交流」ではなく「拘留」しているかのごとく教師をがんじがらめにしてしまっているのが現状なのではないだろうか。

 野田氏は最後に、自分が完全な父親、母親かという愚問を抱く人は少ないだろうが、教師に対しては完全を求めていないか、と警鐘している。親・保護者は自分で出来ない教育を教師にしてもらっている、それ位の心構えで、共に子どもを育んでいく、という姿勢があまりに欠けている。こういう言葉を教師は直接親・保護者には言えない。だからこそ今回の野田氏の発言は大変意味のあるものだし、こういった声を我々教育学に携わる者がもっと声を大にして発言していかねばならぬのだ。現在は教師の代弁者があまりにも少ない。

 教育とは教師にとって、「させられるもの」ではなく「する」ものだと常々講義で説いている。社会全体(文科省、教育委員会、校長、国民全て、そして我々教育学を研究する者たち)が教師に意欲的に学校で働いてもらうように学校環境を整えていく必要・責任がある。全ての原因が教師一個人にあるのだという風潮・誤解(特にマスコミの皆さんには考えて頂きたい。あまりに無責任な報道が多すぎる。ジャーナリズムが日本ではまだまだ未熟なのだと言うことを痛感する日々)を何とも是正していく必要がある。これでは多くの頑張っている教師が報われない。もちろん問題のある教師も多くなってきていることは確かだし、機能不全に陥っている教育委員会も多い。しかし、教育委員会はともかく、その問題ある教師の行動に自分たちが荷担していることがあるのかもしれない、という意識を1人1人にもっと持ってもらいたいものだ。

追加:

 上述した臨床心理士・スクールカウンセラーについてであるが、何も彼らが役立たずだ、と言っているのではないことだけはここで確認させてもらいたい。要は、何か子どもが問題を起こしたとき、あまりに安易にカウンセラーに頼りすぎている、ということを言いたいのだ。カウンセラーに出来ることは極限られているという認識が教育委員会には見られない。教育委員会が責任をカウンセラーに放棄している、とも見てとれる。これではカウンセラーも一種の被害者であろう。

 何かが起きたとき、子どもたちに必要なのは、どうしてそういう現実が起きたのか、ということを子どもたち1人1人に諭させることだ。先日いじめによって生じた自殺の後も、いじめグループが他の者をいじめ続けていたことに象徴されるように、子どもたちに必要なのは癒し(逃げとでも言うべきか)ではない。いじめていた側も、傍観していた者も、その時自分はどうあったのか、という「事実」を認識させることが重要で、それをせずに誤魔化しているから、子どもたちは立ち直る機会を持てずに大人になってしまうのだ。カウンセラーを派遣することでは何も解決にならない、ということにそろそろ教育委員会も気づくべきであろうし、すぐに「子どもが傷ついたから」と安易にカウンセラーに頼るのは、私にはあまりに子どもを甘やかしているとしか見えない時がある。子どもは今の大人が考えているよりも、もっと強かな生き物だと思っていた方がよい。

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コメント

教育問題やいじめ問題はよくわかりませんが、最近の報道には疑問を感じています。
教師を責めてもな~。いじめた人に対する報道があってもよいのでは??と思いますが。軽率ですか???

投稿: ミカ | 2006年11月 9日 (木) 12時40分

>教育とは教師にとって、「させられるもの」ではなく「する」もの

本当にそうであって欲しいです。
先生達がもっと生き生き出来る、主体性のある教育現場であって欲しい。

決まった時間の中で必要なカリキュラムをこなす、効率とか合理性とか秩序とかそういうものが重要視されすぎている気がします。
教育に効率を持ち込んで欲しくない、そんな気持ちです。

投稿: sue | 2006年11月11日 (土) 23時52分

>ミカ

 もちろん、「いじめた側」に対する問題は後手後手にまわっているのが現状だね。いじめられた側の本人・保護者への対応に追われてしまっていて、いじめた側への対応がほとんどされぬままに成長し卒業していっている。滝川の問題にせよ、いじめた側の女子児童はすでに中学生になってしまっているわけで、今後の彼女たちの人生に何かしらの問題が生じるようなことがあっても不思議ではないね。

 いじめた側を報道することよりも、意欲的に頑張っている先生方を多数取り上げて欲しいと思うよ。

>sue

 効率化は事務処理的な部分で進めてくれれば良いのであって、やはり教育に無駄はつきものだと自分も学生を教えていても思います。10教えて1分かってくれれば良い、位の心構えでいなければ、今の学生とは付き合ってられません(汗)。冗談はともかく、先生の生き様などを通して児童・生徒に教育をしていくためには、現状ではあまりに不憫です。

投稿: torada | 2006年11月12日 (日) 04時32分

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