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2005年11月20日 (日)

とっても奇異な感じがするのは自分だけ?!

kondate_window_01  今日は、久々に家族全員でホテルオークラ札幌にてディナーを楽しんできた。和洋中、どれにしようか迷ったが、今回は父にあわせて和食ということになり、食事を楽しむこともさることながら、ビールに始り日本酒、梅酒と全員で飲むに飲む。さらには、帰宅後もワインを開け、民放のニュース情報番組を観ながら飲んでいたのだが、そこでの家族の話題はニュース情報番組等に出てくる芸能人や作家等(中には学者までもが)のいわゆるコメンテーターなる役割。

 この垂れ流しとも言うべき無責任な発言の数々、聞き流そうにも、毎回だんだん聞き流せなくなってくる。そもそも、1時間ないし2時間の番組内では様々なテーマが一般的に扱われるが、その1つ1つに対して、同じ人物がこれまた1つ1つコメントしていくことなど可能なのだろうか。概して、その時に感じたことを勝手気ままにそれも無責任に話しているだけなのだが、そんなものを公共電波にのせる必要性がまず理解できない。加えて、こういう場に出てくる、所謂、こういう仕事を引き受けてしまえる方々というのは、批判ではなく批難好き。そのため、あるテーマでのコメントと、後の異なったテーマでのコメントとが矛盾していることが良く見受けられるが、そんな事に気づきもせず、あたかもそのコメントが「真っ当な批判」であるかのごとく熱く語っている姿は最早滑稽としか言いようがない。これは仕方ないことだと思うのだが、専門分野じゃないことに対してコメントを求められても、場当たり的なことしか答えられず、建設的な意見・対案などそう簡単には述べられないのが普通だ。それならばそういう仕事を引き受けなければ良いと思う、あるいは「その分野に関しては答えかねる」くらいのことを言えば良いと思うのだが(たぶんこう答える人にはこういう類の仕事のオファーはいかないのだろう)、「ご意見番」と言われることに快感を覚える人たちが芸能界や作家人には多数いるらしい。塩野七生が以前「人の職種に貴賤はないが、人の生き方には貴賤がある」と述べていたが、私はまさにその通りだと思う。やはり、人それぞれには自分の進むべき歩むべき道があり、作家であれば、口ではなく、自分の作品・文章を通して世に問えばよいだけなのだ。そして、それが自分の発言に責任を持つ、ということなのではなかろうか。あまりに言葉が浪費されすぎている気がする。「言霊」なるものは一体どこへいったのやら。。。

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コメント

ううう、ラジオで喋っている私にとってこれは耳の痛い言葉。。。
世の中の風潮として(日本だけね)、このように
ひとつのニュースに対してコメントする、みたいな番組の流れが定番のようになっていて、私の番組でもありました。。。
そこでコメントするのが苦痛で苦痛で。。。発言恐怖症でしたし、私だってtoradaのように考えるから、リスナーの中にもそういう人がたくさんいるだろうと思うと、発言が出来なくて沈黙しちゃう(いや、沈黙したら始末書だから何か言うんだけど。。)お恥ずかしい限りです。

そもそも日本のテレビはこういうコメントコーナーだけじゃなく、おそまつな番組が多いよね。

うちは山の中でテレビが映らないのだが、テレビ見なくても全然問題ないよね、生活には(たまーに浦島太郎になるけど。。)

投稿: lilstone | 2005年11月21日 (月) 08時02分

lilstoneが言うように、構成自体の問題がとても大きい気がする。。。なんでコメンテーターをおかなければならないのかがようわからん。。。それに各局にカラーが全然ないのがとっても不思議。常識人&博学ぶっている各局キャスター陣の誰のコメントを聴いても、ほぼ同じ。欧米のようにチャンネルを変えると意見が異なるってことはまずないんだよね。加えて、この日本独自のコメンテーターの訳分からんコメントが入るともう支離滅裂に近い番組な気がするんだけどね。ラジオの場合、特に話さないとどうにもならないからもっと難しいよね。

投稿: torada | 2005年11月24日 (木) 01時35分

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